ウォルター・サレス監督の最新作『アイム・スティル・ヒア』(ポルトガル語原題:Ainda Estou Aqui)は、ブラジル軍事独裁政権下での家族の悲劇を描いた政治伝記ドラマです。マルセロ・パイヴァの2015年の回顧録を基に、独裁政権がもたらした影響を一つの家族の視点から描いています。本作はアカデミー国際長編映画賞やスペインのゴヤ賞最優秀イベロアメリカ映画賞を受賞しています。

この映画は、抑圧的な時代において家族の絆が抵抗の象徴となる様子を描いています。ごく普通の家族が国家の暴力に突然晒される状況を、静かな手法で描き出しています。個人的な悲劇が社会全体への闘いへと発展していく過程が描かれています。
あらすじ|一人の男の失踪が家族の運命を変える
物語の舞台は1970年代初頭のリオデジャネイロです。ブラジル軍事独裁政権の支配が強まる中、家長のルーベンス、母親のエウニセ、そして5人の子供たちからなるパイヴァ一家が暮らしています。彼らはビーチサイドの家で友人たちを迎える、愛情とユーモアに満ちた日々を送っていました。
この平穏な生活は、私服の軍事尋問官によってルーベンス・パイヴァが連れ去られることで一変します。元議員だった夫の失踪は、家族の生活に大きな変化をもたらします。その後、エウニセ自身も12日間にわたって窓のない監房に拘束され、左翼活動を疑われる友人や知人を告発するよう圧力をかけられます。
この体験を経て、エウニセは人権活動家となります。夫の行方を探る活動は数十年に及び、政府の違法行為や失踪者の存在を隠蔽する姿勢を告発する闘いとなります。映画は一つの家族の悲劇を通して、独裁政権が数千のブラジル人家族に与えた影響を描いています。
テーマ|記憶と抵抗の物語
本作は複数のテーマを扱っています。喪失と回復力、個人と政治の交錯、抵抗における女性の役割、そして歴史的記憶の保存が主要なテーマとして描かれています。エウニセが夫の失踪という喪失に直面しながらも活動家として立ち上がる姿が描かれています。
サレス監督の演出は、家族の愛とユーモアに満ちた日常と、独裁政権による抑圧という政治的現実を結びつけています。この手法により、抵抗が公的な行動だけでなく、日常生活の中にも存在することが示されています。エウニセの変化は、独裁政権下で抵抗の中心となった女性たちの姿を象徴的に表現していると解釈できます。
歴史的記憶の保存が重要なテーマの一つとして扱われています。過去を書き換えようとする動きに対する記録として、記憶を文書化することの意義が示されています。映画の最終シーンでは、認知症を患った老年のエウニセが、ルーベンスに関するニュースを見て一瞬過去を思い出す様子が描かれています。
キャラクター造形|家族の愛から生まれた変化
主人公エウニセ・パイヴァは、当初愛情深い母親で献身的な主婦として描かれますが、夫の失踪と自身の投獄を機に活動家へと変化します。この役を演じたフェルナンダ・トーレスは、メロドラマ的な演技を避け、内面の変化を表現しています。
夫のルーベンス・パイヴァをセルトン・メロが演じています。元議員である彼の突然の逮捕が物語の中心的な展開を生み出します。映画は子供たちが父親に抱いていた愛情を描き、彼の失踪が家族にとって大きな喪失であったことを示しています。
若いエウニセを演じたフェルナンダ・トーレスと、老年のエウニセを演じた実の母親フェルナンダ・モンテネグロの共演は、世代を超えた記憶と遺産の継承という要素を作品に与えています。二人のブラジル映画界での地位も相まって、この作品に文化的な意味を加えています。
映画技法|視覚と聴覚による表現
ウォルター・サレス監督の演出は没入的でゆったりとしたスタイルを採用しています。メロドラマを避けたミニマリストな手法により、ドキュメンタリーのようなリアリズムを追求しています。現実的で抑制されたアプローチが用いられています。
撮影を担当したエイドリアン・テイジドは、フィルムストックを場面に応じて使い分けています。物語の冒頭では、リオのビーチの鮮やかなオレンジが懐かしい雰囲気を作り出し、幸せな家族の日常を描いています。ルーベンスの逮捕後は、カメラがより静的で観察的になり、増感処理による粒子の粗いフィルムが使われることで、物語の暗転に合わせた視覚的変化が表現されています。
音響デザインも映画の雰囲気形成に使われています。特にエウニセの投獄中、拷問を受ける人々の声が聞こえてくるシーンは不穏な体験を作り出しています。視覚的な暴力に頼らず、聴覚的に恐怖を伝える手法が採用されています。サウンドトラックは、ビートルズなどの楽曲と当時のブラジル人アーティストの音楽を組み合わせることで、1970年代の文化的環境を表現しています。
まとめ|歴史と記憶を扱った作品
『アイム・スティル・ヒア』は、ブラジル軍事独裁政権下での家族の体験と、それに対する一人の女性の対応を描いた作品です。特定の歴史的事件を個人的な視点から描くことで、より大きなテーマを扱っています。家族の愛とユーモアが抑圧に対する一つの対応として、個人の変化が歴史的な動きと結びつく様子が描かれています。
記憶の保存というテーマが現代的な意味を持つ作品として制作されています。ウォルター・サレス監督は本作の制作を緊急性を持って行ったと語っており、制作当時ブラジルが1970年代の状況に近づいていると感じられたためだとしています。この作品は、支配的な物語に対する異なる視点を提示し、歴史的記録の重要性について扱った映画です。