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​『FEMME フェム』映画レビュー|ドラァグクイーンの復讐と葛藤を描くラブサスペンス​

2023年に公開されたイギリス製作の映画『FEMME フェム』は、ヘイトクライムの被害者となったドラァグクイーンが、自らを襲撃した男との危険な駆け引きを描いたラブサスペンスです。​2021年に英国アカデミー賞にノミネートされた同名の短編を基に、サム・H・フリーマンとン・チュンピンが監督・脚本を務めています。

あらすじ|暴力と復讐の果てに揺れる心

ナイトクラブで華麗にパフォーマンスを披露するドラァグクイーンのジュールズは、ある夜、プレストンという男をリーダーとする一団に襲われ、ホモフォビアに基づく激しい暴行を受けます。心身ともに深く傷つき、静かに日常に身を潜めていたジュールズでしたが、数ヶ月後、偶然訪れたゲイサウナでプレストンと再会します。相手が自分を襲った本人であることに気づき、ジュールズは彼に近づいていく決意を固めます。

最初は復讐のための接近だったものの、ジュールズはプレストンが自らのセクシュアリティを隠しながら生きていることに気づき、その脆さや孤独に触れるうちに、心に葛藤が生まれていきます。憎しみと欲望、正義と誘惑の境界が次第に曖昧になるなか、二人の関係は次第に危うい方向へと進んでいきます。

テーマ|アイデンティティを揺るがす痛みと変容の物語

『FEMME フェム』の根幹にあるテーマは「アイデンティティ」の流動性とその演じられる性質にあります。特にトラウマやクィアネス、社会的期待の中で、個人がどのように自己を見失い、そして取り戻そうとするのかを繊細に描いています。主人公ジュールズは、襲撃事件によって誇り高いドラァグクイーン「アフロディーテ・バンクス」としての自信を失い、孤独と沈黙の中に身を置くようになります。彼がプレストンに近づくのは復讐のためであり、同時にその行動は自らの力を取り戻す試みでもありますが、次第にその「演技」が本物の感情と交差し始め、アイデンティティと欲望の境界が曖昧になっていきます。

一方、加害者であるプレストンもまた、別の形でアイデンティティに苦しんでいます。表向きは攻撃的でマッチョな態度を取りながらも、その内側にはクローゼットに隠れたゲイとしての苦悩と、自己嫌悪による抑圧が渦巻いています。ジュールズとの関係性を通じて、彼の仮面は徐々に剥がれ、抑え込んでいた感情や繊細さが顔をのぞかせるようになります。社会的な規範が個人のアイデンティティをいかに歪め、自らの本質すら見失わせるのかを、プレストンというキャラクターは体現しています。

監督のサム・H・フリーマンとン・チュンピンは、こうした複雑な人物像とテーマを、映像的な演出で際立たせます。ドラァグは単なる装いではなく、ジェンダーという「演技」を象徴する強力なメタファーとして機能しており、ジュールズの「アフロディーテ」としての姿と、復讐のために演じるマスキュリンな姿との間には、自己表現と生存戦略の緊張が存在します。照明は、アフロディーテを輝かせる華やかな光と、襲撃後のジュールズを照らす冷たい蛍光灯のコントラストで、彼の断裂したアイデンティティを視覚的に表現。さらに、ジュールズとプレストンの関係が「復讐か愛情か」「操作か共感か」といった曖昧さを孕んで描かれることで、観客自身も「本当の自分とは何か?」という問いと向き合わされます。『FEMME フェム』は、クィアな存在が直面する痛みと再生を通じて、アイデンティティの複雑さを問い直す濃密な心理劇なのです。

キャラクター造形|復讐と欲望に揺れる複雑な人間像

『FEMME フェム』において、ジュールズとプレストンの二人は、アイデンティティ、復讐、そして権力関係の流動性といった本作のテーマを体現する存在です。ジュールズはドラァグクイーンとして自分を表現し、舞台の上では誇り高く輝いていますが、襲撃事件を機にその自信を失い、孤独と沈黙の中に閉じこもっていきます。彼の復讐は、ただの報復ではなく、自己を取り戻そうとする葛藤の一環であり、そこには心理的な深い痛みがにじみ出ています。

ジュールズの計画は、プレストンを誘惑し、その姿を撮影してネットに晒すというもので、トラウマへの反応としての「加害」の側面を浮き彫りにします。しかし、プレストンへの複雑な感情――嫌悪と同時に芽生える欲望と共感――が、彼の動機を曖昧にし、被害者と加害者の境界を曖昧にしていきます。ジュールズの変化は、「力を奪われた存在」が「力を行使する存在」へと変貌しながらも、その過程で再び人間としての弱さと向き合うという、道徳的に揺れ動く旅そのものです。

一方、プレストンは内面化されたホモフォビアと陰鬱な男らしさの象徴です。自身の性的指向を否定し続けることによって、ジュールズへの暴力という形でその抑圧を爆発させます。表面的には支配的で攻撃的な彼も、物語が進むにつれて次第にその仮面を剥がされ、繊細で不安定な一面が露呈していきます。ジュールズとの関係性は、従来の力関係を転覆させるもので、支配と服従、加害と被害、愛と憎しみが絶えず交錯する緊張感に満ちています。このようにして、フリーマンとチュンピン監督は、ジュールズとプレストンという二人の人物を通じて、人間の欲望と恐れ、そしてアイデンティティの脆さと回復の可能性を深く描き出しているのです。

映画技法|視点と演出で浮かび上がる心理的緊張

『FEMME フェム』の演出において、監督サム・H・フリーマンとン・チュンピンは視点とカメラワークを巧みに使い、観客に登場人物の内面を体感させる映画体験を生み出しています。主人公ジュールズにはハンドヘルドの撮影を多用し、感情の揺らぎやトラウマをリアルに伝えることで、彼の視点を観客に密接に共有させます。一方、プレストンは物語序盤では客観的に、距離を持って撮影されており、彼の内面が徐々に明かされるにつれて、カメラは彼にも親密に寄り添うように変化します。この視点の使い分けが、キャラクターの心理的変化を繊細に映し出しています。

照明とビジュアルコントラストもまた、本作の感情表現において重要な役割を果たしています。ジュールズがアフロディーテとしてステージに立つシーンでは、ミュージックビデオのような美しく構成された映像で彼の強さと魅力が際立ちます。しかし、暴行後には冷たく無機質な蛍光灯の光の下で、その仮面が剥がれ落ちた脆さが露わになります。この幻想と現実の対比が、キャラクターの内面の揺れを視覚的に強調し、物語の緊張感を一層高めています。

また、本作はジャンル映画の定型をあえて逸脱し、観る者に道徳的な不安や混乱を与える演出を多用しています。ネオ・ノワールやエクスプロイテーション映画の影響を受けつつ、従来の復讐劇のような明快なカタルシスは提供されず、代わりに同情や欲望、そして倫理的曖昧さといった複雑な感情が丁寧に描かれています。エロティックな緊張感は安易な快楽のためではなく、不快さと戸惑いを生むために用いられ、観客に登場人物と同様の葛藤を体験させる仕掛けとなっています。こうした技法を通じて、『FEMME フェム』は視覚的にも感情的にも深く印象に残る一作に仕上がっています。

まとめ|『FEMME フェム』が映し出す復讐と赦しのリアル

『FEMME フェム』は、ヘイトクライムによって傷を負ったドラァグクイーンと、その加害者である男との関係を通じて、アイデンティティ、復讐、そして赦しの本質に迫るサスペンス・ドラマです。主人公ジュールズは、自身の誇りを奪われたことで孤立しながらも、復讐を手段に再び自分を取り戻そうとします。一方、加害者プレストンは、自らのセクシュアリティを否定し続けた末に暴力へと走った人物で、彼もまた深い苦悩を抱えています。二人の関係は、単なる善悪の枠を超えて、欲望や恐れ、不安定な力関係の中で揺れ動いていきます。監督は視点の切り替えや照明の使い分け、ジャンルの常識を覆す演出で、観客に登場人物の内面をリアルに体感させます。復讐は本当に救いとなるのか、それとも新たな傷を生むだけなのか――本作は、観る者に人間関係と倫理の複雑さを静かに問いかけてきます。