ポール・トーマス・アンダーソン監督による2025年の映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、彼のキャリアで最大規模の製作費がかけられた作品です。主演にレオナルド・ディカプリオを迎え、アクションスリラーというジャンルの枠組みの中で、監督独自の作家性を追求しています。この映画は、現代アメリカ映画における重要な試みの一つです。
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本作は、娘を奪還しようと奔走する父親の物語という、多くの観客にとって分かりやすい構造になっています。その一方で、物語の深層には、現代アメリカ社会を二分するリベラルと保守の対立、理想の挫折、そして世代間の断絶といった複雑なテーマが込められています。芸術性と商業性という二つの要素を両立させようとする姿勢は、この映画の大きな特徴です。
- あらすじ|過去の革命と、父娘の運命が交差する追跡劇
- テーマ|ピンチョン作品を下敷きにアメリカの分断を問う
- キャラクター造形|内なる矛盾を映し出す多面的な人物像
- 映画技法|作家性とエンターテイメント性の両立
- まとめ|批評的成功と商業的苦戦
あらすじ|過去の革命と、父娘の運命が交差する追跡劇
物語は、オバマ政権時代に活動したリベラルな革命組織「フレンチ75」の活動から始まります。爆弾製造を担当していたパット(レオナルド・ディカプリオ)や、カリスマ的リーダーのパーフィディア(テヤナ・テイラー)らが参加した移民収容施設の解放作戦は、組織の活動の頂点でした。しかしこの作戦中、パーフィディアが軍人のロックジョー大佐(ショーン・ペン)に取った行動が、16年にもわたる因縁の引き金となります。
それから16年後、主な舞台はトランプ政権を経た現代アメリカに移ります。パットは「ボブ」と名を変え、革命の理想を捨てて娘のウィラ(チェイス・インフィニティ)と静かな生活を送る、一人の父親になっていました。しかし、執拗に彼らを追い続けていたロックジョーが再び姿を現し、ウィラが失踪したことで、ボブは否応なく過去との対決を迫られます。ここから映画は、父が娘を救い出すための追跡劇として展開していきます。
物語が終盤に差しかかると、ロックジョーの真の動機が明らかになります。彼の目的は、白人至上主義の秘密結社への加入を果たすため、そして彼自身が実の父親であるウィラを殺害することでした。この事実の発覚は、物語を壮大なカーチェイスシーンへと導き、観客にジャンル映画としての緊張感を提供します。
テーマ|ピンチョン作品を下敷きにアメリカの分断を問う
本作のテーマを理解する上で重要なのは、トーマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』との関係性です。原作は1960年代のリベラルな理想が1980年代の保守的な時代に挫折する物語でした。アンダーソン監督は、この「理想と挫折」という基本構造を、現代アメリカに置き換えて翻案しています。映画における理想の時代はオバマ政権時代、そして挫折の時代はトランプ政権を経た現代として描かれています。
監督は時代設定の変更に留まらず、抵抗の手段を原作の「非暴力」から「暴力的なテロ」へ、敵対する権力を「政府の官僚」から「ファシスト的な白人至上主義者」へと、それぞれをより過激なものに改変しました。この変更は、「国家が直面する脅威の度合いが上がったからこそ、それに対抗するリベラルの手段も過激化せざるを得なかった」という、現代社会への問いかけとして機能しています。この点が、本作が一部で「ANTIFA映画」として論争を呼ぶ一因となりました。
しかし、本作は政治的な物語であると同時に、個人的な物語でもあります。革命家だった主人公が、娘の誕生を機に、世界の変革という大きな理想よりも、娘を守るという個人的な責任を優先するようになる「父性」のテーマが織り込まれています。そして物語の終わりには、両親の戦いを知った娘が自らの意志で新たな活動へ向かう姿が描かれ、挫折した理想が次の世代へと受け継がれる「世代間の継承」という希望が示されます。
キャラクター造形|内なる矛盾を映し出す多面的な人物像
『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、リベラルと保守の対立を単純な善悪の構図で描いていません。特に、リベラルな理想を掲げる抵抗勢力側のキャラクターは、それぞれ異なる思想や立場を体現しており、その内部の矛盾や葛藤が物語に深みを与えています。例えば、過激な暴力革命を象徴するパーフィディアは、カリスマ的な指導者でありながら、敵に籠絡されて組織を裏切るという人間的な弱さも持ち合わせています。
主人公のボブは、理想を失った元革命家の姿を象徴しています。彼はかつての政治的信念よりも娘の安全を優先し、燃え尽きた中年男性として描かれます。その姿はリベラルな理想の「挫折」を体現するものであり、観客に共感を促す人間的な側面を物語に与えています。彼の存在は、壮大な政治闘争を、より個人的な家族の物語へと着地させる役割を担っています。
一方で、暴力的な革命や理想の放棄とは異なる第三の道を示唆するのが、穏健派のセンセイ・セルジオです。彼が運営する地域に根差した移民支援ネットワークは、地道ながらも着実に人々を救っており、持続可能で実践的な抵抗のあり方とは何か、という問いに対する一つの答えを提示しています。ただし、パーフィディアの描き方については、「性的に奔放な黒人女性」という人種的なステレオタイプに陥っているのではないか、という批判も存在します。
映画技法|作家性とエンターテイメント性の両立
本作の製作背景には、監督の前作ピンチョン映画『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)の経験があります。原作に忠実なアプローチを取った結果、批評的には評価されたものの、物語の難解さから商業的には成功を収めることができませんでした。その反省から、本作では原作をあくまで「インスピレーション」の源泉と位置づけ、物語を直線的で分かりやすいアクションスリラーとして再構築する戦略が取られました。
この戦略は、映画の構造にも表れています。娘を誘拐された父親が彼女を奪還するために奮闘するというプロットは、アクションスリラーの古典的な形式です。この普遍的で感情移入しやすい物語の骨格に、ダークコメディの要素などを織り交ぜています。こうすることで、監督は自身の作家性を損なうことなく、より広い観客層にアピールすることを目指しました。
結果として、本作は観る者の政治的立場によって解釈が分かれる「ロールシャッハ・テスト」のような機能を持ち、様々な議論を呼び起こしました。リベラル派の観客の中からも「主人公たちの暴力行為は市民を危険に晒しており、共感しにくい」といった意見が出るなど、その行動原理の曖昧さが指摘されています。これらの論争は、本作が現代アメリカ社会の複雑な現実に深く切り込んでいることの証左と言えるでしょう。
まとめ|批評的成功と商業的苦戦
『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、ポール・トーマス・アンダーソン監督が、自身の芸術的探求とハリウッドの商業主義という二つの異なる要求の間で格闘した記録と言えます。彼は、現代アメリカの政治的分断という扱いが難しいテーマを、アクションスリラーという大衆的なフォーマットを用いて描くという、意欲的な試みに挑戦しました。
その結果、本作は批評家から高い評価を得て、監督史上最高のオープニング興行収入を記録した一方で、巨額の製作費を回収するには至らず、商業的には成功とは言えない結果に終わりました。この矛盾を内包した評価こそが、本作の本質を象徴しています。理想は挫折し、戦いは敗北に終わるかもしれません。しかし、親から子へと愛と意志が受け継がれる限り、戦いは続いていくという希望もまた、この映画は描いています。