カタパルトスープレックス

興味がない人は無理して読まなくていいんだぜ。

書評|21世紀の明るい独裁者スピン・ディクテイター|"Spin Dictators: The Changing Face of Tyranny in the 21st Century" by Daniel Treisman & Sergei Guriev

本書のタイトル『Spin Dictators(スピン独裁者たち)』は「Spin Doctor(スピン・ドクター)」という言葉からきています。スピン・ドクターは政治家や組織のために情報を都合よく「回転(スピン)」させ、メディアや世論を操作する広報戦略家のこと。 スピン独裁者たちは不都合な事実を隠蔽するのではなく、むしろ巧妙な解釈と演出によって、望ましい方向へと世論を誘導します。ティモシー・スナイダーの『自由なき世界:フェイクデモクラシーと新たなファシズム(On Tyranny)』とそれに続く『On Freedom』とセットで読むと面白いです。

著者たちは、スピン・ドクターの「スピン」という概念を現代の独裁者たちの統治手法に流用しています。過去の独裁者たちが暴力と恐怖で支配したのに対し、21世紀の独裁者たちは情報操作と巧妙な演出によって権力を維持する。暴力的な弾圧を避け、むしろ選挙さえ実施する。表面的には民主主義者を装いながら、その実質を掘り崩していくこの新しい支配の形態を、著者たちは「スピン・ディクテイター(スピン独裁者)」と名付け、新しい独裁者像を描いていきます。

スターリン、ヒトラーや毛沢東のような20世紀の「恐怖独裁者」は、暴力的抑圧と恐怖で統治。年間1,000人以上の政治犯投獄、年間10件以上の政治的殺害を伴う露骨な暴力支配が特徴でした。これに対し、現代の「スピン独裁者」は情報操作による支配を特徴とします。暴力は最小限に抑え、反対派の抑圧も、政治的な罪ではなく脱税や汚職といった非政治的な罪で行う。メディアも完全な検閲ではなく、一部の批判を許容しつつ全体としてコントロールする「賢明な検閲」を採用する。

「恐怖独裁者」と「スピン独裁者」具体的な違いは以下:

  • 情報統制: 完全な検閲から「賢明な検閲」へ
  • 国際関係: 孤立主義から積極的な国際関与へ
  • 経済政策: 中央計画経済から市場経済の採用へ
  • 正統性の源泉: イデオロギーから実務能力の誇示へ

この変化の背景には、著者たちが「近代化のカクテル」と呼ぶ、グローバル化と社会の高度化があります。教育水準の向上や情報アクセスの容易化により、露骨な暴力と抑圧のコストが著しく高まった。そのため独裁者たちは、より巧妙な支配手法を採用せざるを得なくなった。

この「スピン独裁」の先駆者は「明るい北朝鮮」ともいわれるシンガポールのリー・クアンユーでした。リー・クアンユーは暴力的な弾圧を避け、代わりに巧妙な規制システムを確立しました。例えば、政府批判をする新聞の発行部数制限、許可制の抗議行動、名誉毀損訴訟による反対派の破産など、非暴力的だが効果的な統制手段を編み出した。選挙も巧妙に操作される。定期的な選挙を実施し、野党の参加も認める。しかし、メディア操作、選挙区割りの操作、そして一定の不正を組み合わせることで、常に圧倒的な勝利を収める。

このモデルは、その後アジアからラテンアメリカ、東欧へと広がる。ペルーのフジモリは、当初は民主的な正統性を持つ改革者として登場し、経済改革で評価を得た。しかし次第にメディア統制を強め、司法の独立性を損ない、最終的には汚職スキャンダルで崩壊。カザフスタンのナザルバエフは、スターリン的プロパガンダを避け、代わりにCEOのような国家経営者としての自己演出を行った。「スターリンが神だったとすれば、プーチンはブランドとなった」という本書での言葉がすべてを表しているような気はする。

「スピン独裁者」の台頭で深刻なのは、これらの手法がいろんな民主主義の国にも浸透しつつあることです。そもそも民主主義という土台はとても脆弱でそれを切り崩そうとする攻撃に常にさらされている。本書でも触れられているフィリピンのドゥテルテやブラジルのジャイール・ボルソナーロのような指導者たちも新しい形の権威主義的フェイクデモクラシーの代表ですよね。ただ、同様に本書でも触れられているペルーのアルベルト・フジモリのように「スピン独裁」がうまくいかないケースも多々あるのではあるのですが。

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