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興味がない人は無理して読まなくていいんだぜ。

書評|最後まで常識を揺さぶる『万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~』|"The Dawn of Everything" by David Greaber & David Wengrow

人類学者でアナーキストのデヴィッド・グレーバーの遺作であり考古学者デヴィッド・ウェングロウとの共著の"The Dawn of Everything"についての書評はいつか書こうと思っていたものの、ブログ休眠中に翻訳本『万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~』が出版された。

これはこれでめでたいことなのだけど、基本的には日本で出版されていない本を紹介しているこのブログ。この手の本にしては珍しく売れたらしい。日本でもすでにいっぱい書評も出てる。でも、書いちゃおう。備忘録として。めっちゃボリュームがあるレンガ本だったし。

デヴィッド・グレーバーの著作の特徴は自分たちが「当たり前」と思っていたことを「根拠のない思い込み」だったと気づかせてくれるところだと思います。『負債論』でも「昔は通貨はなく物々交換だった」は単なる思い込みだったと気づかせてくれましたよね。今回、デヴィッド・グレーバーがデヴィッド・ウェングロウとともに破壊するのは「原始時代は平等で自由だった」という思い込み。正しい質問は「不平等の起源はなにか?」ではなく、「不平等の起源とは何かという質問の起源ははにか?」だと二人の著者は言います。

二人の著者は様々な文献を調べると中世では階級社会が自然だと考えられていたと言います。たとえばアダムがイブより上。この風向きが変わってきたのが17世紀の近世自然法あたりから。自然法論では道徳的な原則が人間の自然本性や宇宙の本質に根ざして存在していて、それが法律や規範の基盤であるとする哲学的見解。

この議論の中で特徴的なのがホッブスとルソー。ホッブスは「万人の万人に対する闘争」として争いが自然状態としている。いっぽうでルソーは「平和で自由、平等な状態」を自然状態としている。それに対して本書では自然状態が人間の本性を表す固定的なものではないという立場を取ります。むしろ初期の人類社会は多様で、流動的な社会形態を経験していた。狩猟採集社会から農耕社会への移行は一方向の進化的プロセスではなく、社会形態の選択や試行錯誤があったとしている。

『負債論』でも「通貨」よりも先に「取引台帳」があったはず、まずツケで売買が成立していたはずという仮説に基づいて事実検証を進めていきました。その手法は本書でも同じ。「人類の歴史が狩猟採集から農耕、そして文明化へと単線的に進歩してきた」という従来の通説に疑問を投げかけ。そんなリニアな発展じゃないという仮説をもとに事実検証を行う。考古学的証拠を広く集めることで、仮説の裏付けをおこなっていく。一方でこの証拠集めが恣意的じゃないかという批判も一部でされることになるのですが。

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それでも本書が投げかける問いかけや、現在の社会システムは唯一の選択肢ではないという指摘は刺激的なわけです。完璧な歴史叙述とは言えないまでも、従来の固定観念を揺さぶりをかけることが本書の真の価値なのではないかと思います。特にキリスト教はそもそも平等の概念が希薄だったが、。啓蒙主義の哲学者自身が認めているようにネイティブアメリカンの影響が大きいと考えられる……というのは面白い仮説だと思った。イエズス会はキリスト教の中でも知的な派閥だったので、議論のためにネイティブアメリカンの言葉を学んだ。その中から学んだネイティブアメリカンの「自由」という考え方は当時のイエズス会士には「奇妙な自由(wicked freedom)」に映った。

そして二人の著者は人類学者グレゴリー・ベイトソンの「分裂生成(スキズモジェネシス)」という概念を議論に使う。分裂生成とは小さな違いが議論を重ねると負けないために極端になっていき、大きな違いになることらしい。個人レベルだけでなく、文化レベルでも起きる。ネイティブアメリカンとヨーロピアンの間でも同じことが起きたと二人の著者は想定する。

こういう想定の上に想定を乗せる議論が苦手な人はいるとは思う。でも、それが知的好奇心を揺さぶるのであれば、いいのではないかと思ったりもする。そんなデヴィッド・グレーバーの新しい著書はもう読めないのかと思うと、やはり残念なわけです。

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