カタパルトスープレックス

興味がない人は無理して読まなくていいんだぜ。

書評|ニューヨークとサンフランシスコの間の「不気味の谷」|"Uncanny Valley" by Anna Wiener

f:id:kazuya_nakamura:20200204232221p:plain

オンライン版の雑誌『ニューヨーカー』で記者をやっているアナ・ウェイナーの初著書である"Uncanny Valley"は日本語で「不気味の谷」です。不気味の谷は最近はロボットへの嫌悪感を表す心理現象です。ロボットっぽいロボットには特に嫌悪感は感じないのだけれど、人間に近づくと気持ち悪く感じる。これが「不気味の谷」で。この嫌悪感を超えると再び好感が持てるようになります。

"Uncanny Valley"はアナ・ウェイナーがニューヨークからシリコンバレーに移り住み、出版業界からスタートアップに転職した際に、自信が様々な「不気味の谷」を超えた経験をまとめたものです。

Uncanny Valley: A Memoir

Uncanny Valley: A Memoir

  • 作者:Anna Wiener
  • 出版社/メーカー: McD
  • 発売日: 2020/01/14
  • メディア: ハードカバー

アナ・ウェイナーはニューヨーク生まれ。大学では文学を学び、出版社に就職します。しかし、出版業界は氷河期。若い労働力は搾取されるのみ。25歳なのにまだお茶汲みやってる。出版業界で成功できるのは資産を受け継いだ人たちだけ。カネもコネもない自分にはどうしようもできない世界。自分自身で独立した大人になりたくて、これまで借金なしで生きてはきたけれど、低い給料で高い生活費。とても持続可能と思えませんでした。そこで、25歳でebookのスタートアップ(たぶん、後にグーグルに買収されたOyster)に転職を決意します。2013年のこと。この本では具体的な会社名は出てきません。フェイスブックは「みんなから嫌われているソーシャルメディア」だし、グーグルは「検索の巨人」だし、マイクロソフトは「コラボレーションツールの複合企業」です。

この出版業界からスタートアップが最初の「不気味の谷」ですね。大学を出たばかりのスタートアップ 創業者たちからお茶汲みの自分が、出版業界の知識を持っているタレントとして求められていると感じた。新旧の出版業界を結ぶ架け橋として役割も見出しました。しかし、実際には創業者たちは本に興味はなかった。スタートアップの創業者にとって本は起業のネタでしかないですからね。ダメならピボットしないといけない。これがビジネスが成立している大企業とこれから飯の種を見つけなければいけないスタートアップ との大きな差でさり、大企業からスタートアップへ転職する人にとっての「不気味の谷」となります。

この「不気味の谷」を渡る過程で一種のアイデンティティークライシスに陥ります。アナ・ウェイナーも「本に興味がないなら、なぜ自分を雇ったのか?」と考えてしまいます。ひとつは、女性を雇うのがトレンドでクールだったから?実際には大企業とスタートアップ のメンタリティーの違いです。大企業において仕事は与えられるものです。ちゃんと役割があって、役割をうまくこなすことが求められる。しかし、スタートアップでは仕事は自分で作るもの。そして、その仕事がスタートアップにとって必要だと周りに必要だと認めさせること実行こそが美徳、失敗こそが美徳。

ボクがマイクロソフトに入った時も仕事ありませんでした。1995年にマイクロソフトはすでにスタートアップとは言えませんでしたが、そのメンタリティーはしっかり残っていました。最初の「仕事」はコンピューターを組み上げて(ネットワークカードってなんだ?)、ネットワークにつないで(当時のWindowsはPPPもTCP/IPをサポートしていませんでしたからね!NetBEUI覚えてる?)、必要なソフトウェア(どこにあるんだ?当時はOutlookもSharepointもないですから!メールはMicrosoft Mail。裏はXENIX - マイクロソフトのUNIXと聞いた。ブラウザすらない!)をインストールすることでした。で、その後に本当の「仕事」は自分で見つけないといけなかった。「何したらいいですか?」「ごめん、忙しいから自分で探して」「??!」。未熟であることは許されるけど、自分で考えて動けないことは許されない。実行こそが美徳、失敗こそが美徳。最近はスタートアップ だけでなく大企業でも"Self Starter"(自走できる人材)が求められますが、スタートアップ では自走できない人は生きていけません。自走できない人が集まると会社が死ぬから。

閑話休題。

アナ・ウェイナーはebookスタートアップから解雇されてしまいます。文化に適応できなかった。大きな出版業界でしか経験がないので、スタートアップとの"Culture Fit"が十分ではなかったんですね。では、出版業界にに戻るか?しかし、スタートアップが気に入りはじめていました。出版業界では得られない自由がそこにはありました。そこで、スタートアップのメッカであるシリコンバレーで職探しをします。そして、データアナリティクスのスタートアップ(これはどこかわからない)で働くこととなりました。アナ・ウェイナーも徐々にスタートアップ の流儀がわかってきます。言葉も理解できるようになってきた。

もちろん、ニューヨーク出身のアナ・ウェイナーがサンフランシスコに溶け込むのはさらに時間がかかりました。センスが全然違うんですよね。良くも悪くもウッディー・アレンってニューヨークっぽさを代表していて、笑いもちょっとインテリなんですよ。ちょっとインテリで、クールな振る舞いが求められる。アナ・ウェイナーの文章もかなりニューヨークっぽいです。西海岸はもっと明るく楽観的な振る舞いが求められる。もちろん、個々の人たちはそれぞれですよ。明るいニューヨーカーもいるし、皮肉屋のサンフランシスコの人もいます。ポイントは「振る舞いが求められる」ってところです。個々は違っても、企業のような集団となれば求められる振る舞いや傾向が出てくる。これがもう一つの「不気味の谷」ですね。

もう一つは職業の間にある「不気味の谷」。アナ・ウェイナーが「データアナリティックの会社」で得た仕事はカスタマーサポートでした。ソフトウェア企業には見えないカースト制度があります。カスタマーサポートは低い層のカーストに属しています。みんな言わないですが、暗黙の了解としてそうなっています。今でこそ「カスタマーサクセス」は(エンタープライズ向けソフトウェアであれば)重要な仕事として認識されていますが、それも最近のことです。アナ・ウェイナーもスタートアップの人たちが集まるバーで会話をするときに自分の仕事を言うのを少し躊躇してしまいます。ニューヨークとシリコンバレー。出版とテック、女性と男性。創業者と従業員。スーツとギーク。開発者とカスタマーサポート。「不気味の谷」はいろんなところに存在しています。

この本はどんな人にオススメか

従業員の視点からスタートアップを知りたい人にはオススメです。創業者の視点も一つのリアルですが、従業員の視点もまたリアルなんです。

スタートアップ関連の本は創業者や出資者の視点で書かれたものが多いです。しかし、創業者と従業員では視点が全く違います。連邦軍とジオン軍くらい違う。多くのスタートアップ従業員はアムロ・レイでもキャスバル・レム・ダイクンでもないです。ビル・ゲイツでもマーク・ザッカーバーグでもないのと同じ意味で。創業者と従業員の間にも「不気味な谷」があるのです。"Uncanny Valley"は従業員の視点から書かれた本です。そう言う意味では、ジオン軍の視点からゲームができる『ジオニックフロント』に似ています。ガンダムに乗って無双するのがスタートアップじゃないんです。

また、従業員の視点から様々な事件を眺める形になっているのも面白いです。例えばスノーデン。どこのスタートアップも「ゴッドモード」でいろんなユーザーデータを見ていました。そんなときにスノーデンの事件。「悪い奴らもいるもんだ、ボクらは正義の側」だとうそぶく社員。そして、徐々に「監視」という言葉が使われるようになる。データを扱う会社は監視会社。アナ・ウェイナーはスタートアップにおける男女差別が問題になっていた頃に「オープンソースの会社(=GitHub)」に転職します。女性従業員からみた男女差別や人種差別もなかなか面白かったです。

GitHubの女性エンジニアがハラスメント(セクハラ、から訂正)に耐えかねて退社 ネットで改善を訴える:海外速報部ログ:オルタナティブ・ブログ