映画『遠い山なみの光』は、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロのデビュー小説を原作とした映画です。監督は『ある男』や『愚行録』で知られる石川慶が務めました。原作者であるイシグロ自身もエグゼクティブ・プロデューサーとして製作に関わっています。日本、イギリス、ポーランドの3カ国による国際共同製作として作られ、第78回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門でワールドプレミアを飾りました。

物語は1980年代のイギリスから1950年代の長崎を回想することで、一人の女性の記憶に隠された歪みと真実を描いていくヒューマンミステリーです。カズオ・イシグロ作品に流れる、記憶の不確かさ、トラウマ、揺れ動くアイデンティティといった普遍的なテーマを探求しています。観客は主人公の語りを通して、再構築された過去の断片を見つめることになります。
この作品のテーマについて書く上で、かなりネタバレ的な核心部分に触れています。観終わった後に、答え合わせに読むことはとてもおススメです。ネタバレが嫌いな人はそっとここで閉じましょう。
- あらすじ|二つの時間軸が織りなす隠された歪み
- テーマ|過去を乗り越え「前に進む」
- キャラクター造形|記憶の断片を体現する
- 映画技法|主観的な現実を構築する映像と音響のデザイン
- まとめ|過去を語り直すことで現在を見つめ直す
あらすじ|二つの時間軸が織りなす隠された歪み
物語は1950年代、戦後の長崎の風景から静かに幕を開けます。しかし、そのノスタルジックな風景は長くは続きません。ニュー・オーダーの楽曲『Ceremony』が鳴り響くと、場面は1980年代初頭のイギリスへと鮮やかに転換します。日本から移住した主人公のエツコ(吉田羊)は、夫と長女のケイコを亡くし、一人で暮らしていました。そこへ、ロンドンで暮らす次女のニキ(カミラ・アイコ)が訪ねてきます。この訪問が、エツコの閉ざされた記憶の扉を開くきっかけとなります。
作家を目指すニキは、これまで母が語ることのなかった過去について知りたいと願っています。ニキの問いかけに応じて、エツコは遠い昔に長崎で出会ったある女性に関する不穏な「夢」について語り始めます。再び舞台は1950年代の長崎へと移ります。若き日のエツコ(広瀬すず)は、夫の二郎(松下洸平)と義父の緒方(三浦友和)と共に、一見穏やかな日々を送っていました。しかし、エツコたちが住む団地の前にあった川沿いの小屋に、いつの間にか娘のマリコ(鈴木碧桜)を連れた謎めいた女性・サチコ(二階堂ふみ)が住み着いていました。これが彼女の日常に変化をもたらします。
この二つの時間軸で語られる物語は、単なる回想録ではありません。娘のニキは、母が語る過去の物語の細部に奇妙な食い違いや矛盾を感じ取ります。その違和感の先に、ある痛ましい過去が浮かび上がってきます。観客が見るのは、客観的な過去の記録ではありません。それは、エツコが自らを守るために無意識に再構築したとも解釈できる、極めて主観的な物語です。この語りと隠された事実との間の乖離にこそ、本作の核心があります。
テーマ|過去を乗り越え「前に進む」
本作を貫く最も根本的なテーマは、過去の重荷を背負いながらも「前に進む」ことの探求です。登場人物たちはそれぞれ、戦争の記憶、娘の自殺という個人的な喪失、大きく変動する社会といった、個人では抗い難い過去にとらわれています。戦時中の価値観に固執する義父・緒方が若い世代から「変わらなければいけない」と諭される構図があります。時を経て、娘ケイコの死の記憶にとらわれるエツコが次女ニキから未来へ目を向けるよう促される姿に、その構図が反響します。この世代を超えた繰り返しが、「前に進む」ことの普遍的な困難さと重要性を浮かび上がらせます。
この「前に進む」ための葛藤は、カズオ・イシグロ作品に共通する「信頼できない語り手」という手法と密接に結びついています。エツコの語る過去は、単なる事実の記録ではありません。それは罪悪感やトラウマと折り合いをつけ、現在を生き抜くために無意識的に再構築された物語と解釈できます。過去を語り直す行為そのものが、彼女にとって「前に進む」ために必要な、痛みを伴う自己治癒のプロセスなのです。この物語における記憶の不確かさは、単なる謎解きの仕掛けではありません。人間が過去を乗り越えるための心理的なメカニズムとして描かれています。
この個人の葛藤の背景には、戦争が残した深い傷跡や、文化的な移動に伴うアイデンティティの揺らぎといった、より大きな社会的テーマが存在します。これらは物語の主題そのものというより、登場人物たちが「前に進む」ことを困難にさせる重力として機能しています。戦争のトラウマは過去への固執を生み、新たな土地での生活は自己の拠り所を曖昧にします。これらの要素が、登場人物たちが未来へ一歩を踏み出すために、いかに大きな障害を乗り越えなければならないかを重層的に示しています。
キャラクター造形|記憶の断片を体現する
主人公のエツコは、二人の俳優によってその複雑な内面が表現されています。若き日のエツコを演じる広瀬すずは、単一の人物像ではなく、記憶の中で変化していく複雑な役割を担います。彼女がまず表現するのは、現在のエツコ(吉田羊)が語りの中で再構築した、穏やかで理想的な過去の自分です。しかし物語の後半にかけて、その理想像と隠された本来の姿が重ね合わさっていく様を、繊細な演技で表現しています。
一方、年を重ねたエツコを演じる吉田羊は、過去の記憶と喪失感に苛まれる姿を通して、長年抑圧してきた罪悪感の重みを体現しています。広瀬すずが演じる「語られる過去」と、吉田羊が演じる「語る現在」の対比と連続性によって、一人の人物の中の時間の流れと記憶の変容が描き出されています。外見的な類似性とは別に、両者の演技力が一人の人物としての説得力を生み出していると評価されています。
物語の鍵を握るのが、二階堂ふみ演じるサチコです。彼女は、若き日のエツコが置かれた状況とは対照的に、自由奔放に行動する女性として登場します。しかし、サチコの人物像は意図的に曖昧に描かれています。彼女の存在は、エツコの記憶の中の単なる隣人というだけではありません。エツコ自身の内に秘められた、もう一人の自分の姿を暗示しているようにも見えます。サチコという存在を通して、エツコの語られなかった衝動や葛藤が浮かび上がってくるのです。
映画技法|主観的な現実を構築する映像と音響のデザイン
本作の映画的言語は、物語のテーマである記憶の不確かさを視覚的、聴覚的に補強しています。ポーランドの撮影監督ピョートル・ニエミスキーは、二つの時間軸を明確な色彩戦略で描き分けました。1950年代の長崎の場面は、鮮やかで夢のような質感を持つ「ノスタルジックなコダクロームカラー」で撮影され、これが理想化された記憶であることを示唆します。対照的に、1980年代のイギリスの場面は、影と抑制された色調で描かれ、年老いたエツコの内面と、より現実的な現在の状況を反映しています。
監督自身が編集も担当し、物語を非線形の構造で構築しています。過去と現在の場面が断片的に交差する編集は、人間の記憶が持つ連想的で脈絡のない性質を模倣しています。この手法により、二つの時代の境界線は次第に曖昧になり、過去が現在に侵入してくるかのような不穏な雰囲気を醸成します。この編集のリズムが、物語全体に漂う謎と不安感を効果的に生み出しています。
音楽もまた、映画の心理的な風景を形成する上で重要な役割を担っています。特に象徴的なのは、冒頭で長崎の風景から1980年代のイギリスへと場面が転換する際に流れるニュー・オーダーの『Ceremony』です。この選曲は、現在の時間軸を特定の文化的な時代に位置づけると共に、過去の日本の音風景との鮮やかな対比を生み出します。エツコが経験した文化的な隔たりを聴覚的に強調しているのです。こうしたポストパンクの楽曲と、ポーランドの作曲家パヴェウ・ミキェティンによるメランコリックな劇伴音楽との組み合わせが、作品全体の複雑な感情の層を形成しています。
まとめ|過去を語り直すことで現在を見つめ直す
石川慶監督による『遠い山なみの光』は、文学作品の映画化という枠組みの中で、原作の持つ心理的な深みを独自の映像言語へと翻訳することに成功した作品です。単に物語をなぞるのではなく、記憶の不確かさやトラウマといった抽象的なテーマを、色彩や編集、音響といった映画技法を駆使して巧みに表現しています。国際的な製作体制が、物語の持つ「国境のない」感覚を一層際立たせています。
この映画が探求するのは、我々の過去というものが、客観的で固定された事実の連なりではないということです。それは現在の自己を形成し、肯定するために絶えず語り直される主観的な物語である、という人間の根本的な真理を描いています。主人公・エツコの信頼できない語りは、一個人の自己欺瞞であると同時に、より大きな歴史的トラウマと向き合う際の集団的な心理の寓話としても機能します。観る者に対し、自らが構築する過去という「淡い光の眺め」について問いかけてくる作品です。