カタパルトスープレックス

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予測不可能な「化学物質」として愛を描く映画『愛はステロイド』

映画『愛はステロイド』は、単一のジャンルに留まらない作品として現代映画界で注目されています。ローズ・グラス監督が手掛けた本作は、ロマンティック・スリラーを基調としつつ、ネオ・ノワール、クィア・ロマンス、心理スリラー、ボディ・ホラー、そして西部劇の要素を含んでいます。米国と英国の共同制作であり、監督の作家性を重視した独立系スタジオA24が制作を手掛けています。

原題『Love Lies Bleeding』は、ヒユ科の植物であるアマランサス・カウダトゥスの英名と同じです。アマランサスの学名「Amaranthus」は、ギリシャ語の「Amaranthos」に由来し、「しおれない花」を意味します。   しかし、ローズ・グラス監督が言及するように、ヴィクトリア朝の「花言葉」においては、この植物は全く異なる意味、すなわち「絶望的な愛」や「絶望」を象徴しているそうです。この二律背反の象徴性は、映画における愛の物語そのもののメタファーとして機能しています。

一方の邦題『愛はステロイド』は、より直接的に物語の核心にあるメタファーを観客に提示しています。監督のローズ・グラスは、長編デビュー作『セイント・モード/狂信』で心理的極限状態や身体的・宗教的な狂気を描いており、本作ではその作風をより広範なジャンルに拡張しています。

あらすじ|欲望と犯罪の連鎖

物語は1989年、ニューメキシコの田舎町にあるジムで働いているルー(クリステン・スチュワート)から始まります。ルーの人生は停滞しており、家族の暴力的な過去の影に囚われています。そんな彼女の前に、ラスベガスでのボディビル大会を目指して町に立ち寄った野心的なボディビルダー、ジャッキー(ケイティ・オブライエン)が現れます。二人はすぐに互いに惹かれ合い、ルーはジャッキーのトレーニングを手助けするために、ステロイドを提供します。これが、愛が「ステロイド」のように作用し、物語を劇的に加速させる始まりとなります。

二人の関係が深まるにつれ、ルーの複雑な家族関係が物語に介入してきます。ルーの父は、街の警察をも手玉に取る犯罪者であり、姉のベスは夫のJJから家庭内暴力を受けていました。ジャッキーは、ルーの助けを借りてラスベガスでの成功を夢見ますが、同時にルーの家族が抱える犯罪の網に引きずり込まれていきます。ステロイドの使用で理性を失いつつあったジャッキーは、JJによるベスへの激しい虐待を目の当たりにし、衝動的にJJを殺害してしまいます。

ルーは、ジャッキーが逮捕されることを恐れ、父に罪を着せることを企て、ジャッキーと協力してJJの遺体を車のトランクに積んで崖から突き落とします。その後、ルーとジャッキーはさらに犯罪の渦へと巻き込まれていきます。ジャッキーが逮捕されたり、ルーを脅迫する人物が現れたりと、事態は悪化の一途を辿ります。物語は、ルーとジャッキーがルーの父の邸宅で最後の対決を迎えることでクライマックスに達します。このクライマックスは、観客を現実から乖離させる超現実的な描写が用いられています。抑圧的な父権的権力に抑えつけられてきたルーとジャッキーが、その支配から物理的に解放される様を表現したメタファーとして描かれています。

テーマ|権力を取り戻す

本作は、愛をロマンチックな感情としてではなく、中毒性のある、予測不可能な「化学物質」として描いています。ルーとジャッキーの関係は、相互の依存と破壊的な欲望によって築かれています。二人は互いにとって破壊の源であると同時に、救済の希望でもあります。ルーはジャッキーとの愛を通じて自身の停滞した人生から脱出しようとし、ジャッキーはルーから得たステロイドと愛によって、夢の実現に向けて加速します。しかし、この愛は二人の人生を犯罪と狂気の螺旋へと突き落とし、その過程で愛の持つ両義性が露わになります。

映画は、女性の身体を物語の中心に据えています。冒頭のジムでのモンタージュは、鍛え抜かれた肉体や汗、筋肉の動きといった「身体の美」に焦点を当てています。しかし、物語が進むにつれて、同じ身体が破壊、暴力、そして超現実的な変容の対象となります。ジャッキーがステロイドの使用によって肉体的にも精神的にも変質していく様は、力と引き換えに自己を失っていく過程を描いています。このテーマは、従来の映画において男性が独占してきた「力」と「暴力」の概念を、女性の、しかもクィアな視点から再定義します。

エド・ハリスが演じるルーの父、ルー・シニアは、物語の中心的な悪役であると同時に、ルーとジャッキーが戦う家父長制の抑圧を象徴する存在です。彼は単なる犯罪者ではなく、ルーの人生と家族の周囲を覆う支配的なシステムそのものです。ルーとジャッキーの愛は、このシステムから脱出するための試みであり、暴力の爆発は、彼女たちがこの影響から解放されるための帰結として描かれています。監督は、西部劇やノワールに登場する従来の価値観を、クィアな視点から批判的に捉え直しています。

キャラクター造形|愛と怒りの肖像

主人公の一人であるルー(クリステン・スチュワート)は、無口で不機嫌なジムのマネージャーとして登場しますが、その無関心な態度の裏には、家族によって深く傷つけられた怒りが隠されています。彼女は、物語の狂気に巻き込まれるにつれて、受け身な存在から、愛する人を守るために犯罪の計画を立てる決意を持った行動者へと変貌していきます。ルーのキャラクターは、停滞と解放の間で揺れ動く現代女性の複雑さを体現しています。

ジャッキー(ケイティ・オブライエン)は、ラスベガスでの成功を夢見る野心に満ちたボディビルダーです。彼女のキャラクターは、「放浪者」でありながら、目的のためには手段を選ばないという西部劇的・ノワール的な特質を併せ持ちます。ステロイドの使用によって、彼女の肉体は変容し、その野心は制御不能な怒りへと変わっていきます。ジャッキーを演じるケイティ・オブライアンは、現実のボディビルダーであり、自身もオープンリー・クィアな女優であるという点で、この役柄に身体的、そして内面的な真実味をもたらしています。

エド・ハリスが演じるルーの父、ルー・シニアは、冷酷で不気味な存在です。彼は物語の核心にある悪の根源であり、ルーが逃れようとしても常に彼女の人生に影を落とす、家父長制の抑圧そのものを体現しています。彼の存在は、ルーとジャッキーの関係が、単なるロマンスを超え、過去と未来をかけた戦いであることを明確にしています。ルー・シニアは、伝統的な権力構造の象徴として機能し、物語全体の対立軸を形成しています。

映画技法|

本作の撮影監督はベン・フォーデスマンが務めました。彼は、ARRI Alexa miniカメラにPVintageやSuper Speedレンズを組み合わせることで、意図的に「クリーンすぎない」ルックを作り出しました。これは、80年代の漫画的な表現を避け、物語の持つ荒涼としたノワール感を強調するのに貢献しています。ニューメキシコの砂漠の広大な風景は、登場人物の孤立感と物語のスケールを同時に表現しています。

色彩は、本作のテーマを視覚的に伝えるための重要な要素です。映画全体は、埃っぽくくすんだパレットで統一されていますが、特定の瞬間で鮮やかな色が効果的に用いられます。ジャッキーがまとうパステルカラーは、彼女がルーのくすんだ世界にもたらす生命力を象徴しています。赤色の使用も目立ちます。ルーのフラッシュバックや、彼女の怒りを表すシーンで、赤色に染まった映像が挿入されます。この赤は、欲望、暴力、そして怒りの感情を象徴しており、視覚的な糸となって物語の全体を貫いています。

クリント・マンセルによる音楽は、不気味なテルミンを思わせるスコアで、映画の「現実が乱された」雰囲気を高めています。音響デザインは、映像と同じくらい物語の感覚的な体験に貢献しています。特に、ジャッキーの幻覚のシーンにおける「減算的な」音響は、観客を彼女の狂気の世界に引き込みます。編集もまた、作品の特徴を際立たせています。ルーとジャッキーの初期の関係は、肉体の動きや親密な行為を捉えたモンタージュで描かれ、二人の絆が身体的な言語によって築かれていく様子を示しています。

まとめ

映画『愛はステロイド』は、愛と暴力の螺旋を描きながら、人間の欲望、身体、そして権力の複雑な関係を探求する作品です。監督のローズ・グラスは、心理的な恐怖と肉体的なグロテスクさを組み合わせています。この映画は、テーマ、ジャンルの混合、そしてクリステン・スチュワートとケイティ・オブライアンの演技によって構成されています。本作は、世界中の映画祭で評価を得ました。サンダンス映画祭やベルリン国際映画祭で公式上映され、英国インディペンデント映画賞では数々のノミネートを獲得し、最優秀撮影賞を受賞しています。

ナショナル・ボード・オブ・レビューでは「トップ10インディペンデント映画」に選出されるなど、その芸術的価値は認められています。興行成績は、この種のインディペンデント映画としては堅実な成功と評価でき、商業的な普遍性よりも、明確な作家性と独自の観客を見つけ出すことに成功したことを示しています。本作は、愛と暴力、抑圧と解放をテーマとし、超現実的な描写を用いて物語を展開しています。