『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』は、2025年に公開されたウェス・アンダーソン監督の12作目となる長編映画です。本作は世界規模のスパイ活劇でありながら、道徳、遺産、そして家族と商業の複雑な関係というテーマを探求しています。監督特有の美学に重厚なテーマが加わった本作は、『フレンチ・ディスパッチ』(2021年)、『アステロイド・シティ』(2023年)でもみられた最近のウェス・アンダーソン監督の変化が顕著となっています。これを彼のスタイルがより深いテーマを描くために進化したのか、あるいはスタイル自体が批評対象となったのか意見が分かれるところでしょう。

本作は『フレンチ・ディスパッチ』(2021年)、『アステロイド・シティ』(2023年)に続く、非公式な「映画製作者の人生三部作」の完結編とされています。『フレンチ・ディスパッチ』が「執筆」を、『アステロイド・シティ』が「監督」のプロセスを探求したのに対し、本作は映画製作における「プロデュース」への言及と解釈できます。主人公ザザ・コルダが巨大プロジェクトを推進する物語は、監督自身の緻密な映画製作のメタファーとしても読め、自己省察的な作品でもあります。
- あらすじ|父と娘、欺瞞に満ちた世界を巡る旅路
- テーマ|富の道徳性、家族の絆、そして死との対峙
- キャラクター造形|完璧なアンサンブルによる人間ドラマ
- 映画技法|緻密なフレームとその意図的な破壊
- まとめ|アンダーソン監督の芸術的進化を示す
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あらすじ|父と娘、欺瞞に満ちた世界を巡る旅路
物語は1950年、冷酷な武器商人アナトール・ザザ・コルダ(ベニチオ・デル・トロ)が、6度目の暗殺未遂を生き延びる場面から始まります。死後の世界で神の法廷に立つ幻覚を見たことで、彼は自らの死と遺産に向き合うことを決意します。コルダは長年疎遠だった娘で修道女見習いのリーズル(ミア・スレアプレトン)との関係修復を図り、彼女を巨大な事業帝国の唯一の相続人に指名します。そして彼女と家庭教師のビョルン・ルンド(マイケル・セラ)を伴い、架空の国フェニキアでの巨大インフラ計画の資金調達のため、世界を巡る旅に出ます。
しかし、この旅には幾重もの嘘が隠されていました。慈善事業に見えた計画は、実はコルダが資金不足を補うため、敬虔な娘を広告塔に投資家を欺くものでした。さらに家庭教師のビョルンは、計画を妨害するために送り込まれたスパイでしたが、リーズルに恋をしたことでコルダ側に寝返ります。物語の核心には、ある家族の悲劇がありました。かつてコルダは嫉妬心から兄のヌーバル(ベネディクト・カンバーバッチ)に偽りを伝え、それを信じた兄が妻を殺害してしまったのです。この真相を知ったリーズルは、叔父の犯行の証拠を掴むため、父との旅を続けることを選びます。
クライマックスでは、コルダの事業の株式を密かに買い占めていた兄ヌーバルとの対決が描かれます。投資家たちの前で二人は争い、殴り合いの喧嘩にまで発展します。勝利したコルダは贖罪として私財のすべてを投じて計画の赤字を補填し、自ら破産を選びます。数年後、プロジェクトの完成を見届けたコルダは静かに息を引き取ります。一方、リーズルは修道院を去り、ビョルンと共に新たな人生を歩み始めました。彼女は父が建設した高速道路の傍らで小さなビストロを営み、財産よりも愛を選んだ自身の幸せを見つけるのです。
テーマ|富の道徳性、家族の絆、そして死との対峙
本作の中心的なテーマの一つは、資本主義と個人の良心の関係です。実在の大富豪をモデルにした主人公コルダは、戦争や飢饉から利益を得る人物として描かれます。物語は、搾取によって築かれた富が慈善事業によって浄化されうるのかという根本的な疑問を投げかけます。アンダーソン監督は独特の美学を用いて、倫理的な危うさを巧みに表現します。例えば、コルダが「奴隷労働」の利用を何気なく口にする場面でも、カメラや登場人物は全く動じません。その結果、観客は完璧に構成された映像美が非人道的な行為を覆い隠してしまう構造の共犯者となるのです。
もう一つの重要なテーマは、家族、特に「壊れた父親像」です。これは監督の作品で繰り返し描かれてきましたが、本作ではより大きなスケールで扱われます。父親の罪が家庭内の問題に留まらず、より大きな破壊に結びついているため、娘との絆を取り戻す試みは一層複雑な意味を帯びます。監督自身が語るように、物語の焦点は執筆過程でビジネスから父と娘の関係へと移っていきました。巨大な事業計画は、最終的に父が娘と心を通わせるための儀式のように描かれます。壮大なスパイ活劇や金融の世界は、愛が財産よりも強い絆であることを示すための舞台装置となっているのです。
そして、死との向き合い方もまた、作品を貫く重要なテーマです。劇中には、官僚的で演劇のような天国を舞台にしたモノクロのシーンが繰り返し挿入されます。ウィレム・デフォーらが演じる神聖な法廷が登場するこれらの場面は、道徳的な審判の場として機能します。これはマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガー監督の『天国への階段』(1946年)から強い影響を受けています。アンダーソン監督は、コルダの非道な現世の行いと、死後の世界における荘厳なイメージを対比させることで、信仰と人間の罪、そして救済の可能性について観客に問いかけます。
キャラクター造形|完璧なアンサンブルによる人間ドラマ
主人公のアナトール・「ザザ」・コルダを演じたのは、ベニチオ・デル・トロです。彼は映画の全編に登場し、憂いを帯びた冷酷な武器商人という役柄を、ほぼ無表情な演技で表現しました。早口のセリフをこなし、死の危険にも動じない世慣れた人物でありながら、同時に娘との和解と自らの贖罪を求める複雑な人物像を創り上げています。
物語の倫理的な中心を担うコルダの娘、シスター・リーズル役にはミア・スレアプレトンが起用されました。スレアプレトンは、無表情な口調と的確な間の取り方で、不機嫌な態度の下に隠された複雑な内面を表現しています。彼女が演じるキャラクターは、物語が進むにつれて変化していきます。当初の敬虔な姿から、次第に酒やタバコを嗜み、武器を携帯するようになっていく過程が描かれます。
マイケル・セラが演じる家庭教師のビョルン・ルンドをはじめ、脇を固める俳優陣も作品世界に深みを与えています。セラはアンダーソン監督作品への初参加ながら、持ち味である少し不器用で風変わりなスタイルが監督の作風とよく調和しています。トム・ハンクス、ジェフリー・ライト、スカーレット・ヨハンソンといった俳優陣は、それぞれが投資家や敵対者といった役柄で登場し、独特の彩りを加えています。
映画技法|緻密なフレームとその意図的な破壊
視覚表現において特徴的なのは、撮影監督の交代です。長年アンダーソン監督と組んできたロバート・イェーマンに代わり、本作ではブリュノ・デルボネルが撮影を手がけました。デルボネルは『アメリ』(2001)などジャン=ピエール・ジュネ監督との協業でも有名で、ティム・バートン監督やコーエン兄弟の撮影監督を務めたこともあります。この変更は、映画のダークで少し不穏なトーンに寄与しています。これまでの作品に見られた鮮やかな色使いとは対照的に、本作では青、灰色、緑を基調とした落ち着いた色彩が採用されました。また、デルボネルは1.5:1という縦長の画角を採用し、ジオラマのようなフレームを創り出しています。
美術は、長年の協力者であるアダム・ストックハウゼンが担当しました。彼はドイツのサウンドステージ上に、意図的に演劇のような世界を構築しています。主人公コルダの邸宅は、イタリアの宮殿、特にヴィラ・ファルネジーナの遠近法絵画から着想を得ており、アール・デコやミッドセンチュリー・モダンを融合させたデザインが特徴です。ローマン・コッポラとの共同脚本は早口で途切れ途切れのセリフ回しが特徴的で、アレクサンドル・デスプラによる音楽は、物語の倫理的な曖昧さを表現しています。
また、緻密に構築されたフレームが意図的に破壊される点も、本作の技術的な特徴です。劇中では、怒りに駆られた登場人物がカメラ自体を攻撃するなど、第四の壁を物理的に侵害する場面が複数見られます。これらの瞬間は、単なる演出上の遊びではありません。完璧に統制された映画の世界に、生の感情が波乱を巻き起こすことを象徴しています。統制された虚構の表面がひび割れ、より生々しい何かが滲み出る瞬間を表現しているのです。
まとめ|アンダーソン監督の芸術的進化を示す
『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』は、ウェス・アンダーソン監督の作品群の中でも、特に挑戦的な一作と言えるでしょう。本作は、罪と贖罪という真摯なテーマを扱いながら、奇抜なアクション・コメディの要素も併せ持っています。また、完璧なビジュアルを追求する一方で、自らその構図を破壊することも厭わない、意図的な矛盾に満ちた作品です。ある大資本家の物語が、最終的に家族の愛の物語へと着地する構成も、その複雑さを示しています。
本作でアンダーソン監督は、映画製作におけるプロデューサーという存在に光を当て、自身の確立された美学を権力への批評へと昇華させることを試みています。これは単なるスタイルの洗練に留まらず、作家として新たな領域に挑んだものと言えるでしょう。本作は、紛れもなく「ウェス・アンダーソン映画」でありながら、その定義自体を問い直す作品です。そして、完全に管理された世界においてさえ最も価値があるのは、予測不可能な人間同士の繋がりなのだと示唆しているのです。