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興味がない人は無理して読まなくていいんだぜ。

戦争教育と相互理解について:映画『バービー』炎上の考察

映画『バービー』の日本公開前にX(旧Twitter)で公式アカウントが原爆を背景にしたミームにポジティブな反応をしたために『バービー』が炎上に巻き込まれました。この騒動では日米の戦争感の違いや問題解決のアプローチの違いもあり、お互いにモヤモヤした感情が残るものとなりました。

ボクはブログ再開にあたり、「これから10年の重要アジェンダ」を三つ設定しました。そのうちの一つが「知性の再定義と教育の見直し」です。今回の騒動はこのテーマと強い関連性があると思いますので、考察してみたいと思います。

そもそもバーベンハイマーとは

今回の騒動と教育がどのように関係するかを考察するためにも、騒動を正しく理解することからはじめないといけません。まず背景としてコロナ禍で劇場から観客が遠のいたことがあります。『フラッシュ』や『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』など2023年の大作の多くも期待はずれに終わりました。

映画『バービー』と『オッペンハイマー』は同日に公開され相乗効果で劇場に観客が戻ってきました。『バービー』はアッパーな明るい作品で、『オッペンハイマー』はダウナーでくらい作品。どの順番で観るのが一番効果的なのか?『バービー』が先で『オッペンハイマー』が後がイイねということで生まれた言葉が「バーベンハイマー」でした。イギリスのスナク首相が#barbenheimerのハッシュタグを使ったことを批判するのも的外れです。

バーベンハイマーというムーブメント自体は原爆とは何も関係なく『バービー』を観てから『オッペンハイマー』という観る順番がムーブメントになっただけで、観客が劇場に戻ってきたのを祝う意味なのは注意が必要です。

バーベンハイマーから生まれたミームと騒動の火種

これがインターネット上でムーブメントになり#barbenheimerがトレンドワードになります。劇場に観客が戻ってくるのはとてもいいことですので、お祝いムードになり、ミームもたくさん生まれました。

そして、ミームの中には(映画『オッペンハイマー』が原爆の開発をリードしたオッペンハイマーを描く作品なので)背景に原爆をモチーフにした作品が多くありました。ミーム自体はファンが作ったもので、制作会社のワーナーブラザーズや映画『バービー』の公式が作ったものではありません。

映画『オッペンハイマー』の公式アカウントはバーベンハイマーとそのミームからは距離を置いていました。しかし、これらのミームの投稿の一つに映画『バービー』の公式Xアカウントが"It's going to be a summer to remember 😘💕“と返信(既に削除済)した。原爆が広島に投下された8月6日に近かったこともあり"夏"がその夏を想起させることから炎上しました。原爆を直接的に扱った『オッペンハイマー』が炎上せず、原爆とは関係ない『バービー』が炎上したのはこのためです。

なぜ日本人の感情はアメリカ人に理解されないか

このミームに対して多くの日本人は(当然のことながら)とても怒りました。少なくとも大変不愉快な気分になった人は多かったと思います。映画『バービー』を楽しみにしていた人たちにとっても冷や水を浴びせられた気分になったでしょう。自分もそうでした。そのため、Xでは日米感で感情的なやり取りが行われましたが、多くは議論が噛み合っていませんでした。

多くの日本人の意見は以下が前提になっていたと思います。

  • アメリカ人は原爆の悲惨さを理解していないからこんなミームが作れる
  • 原爆や東京大空襲は戦争犯罪だった
  • 911を同じようにミームにされたらアメリカ人も不快なはずだ

それらに対してアメリカ人の反論はいかに要約できます。

  • 日本人も自分がした酷いことを理解していない
  • 日本も戦争犯罪と言える虐殺をしている
  • アメリカ人は911を自らミームにしている

相互理解できない理由①:戦争教育の問題

実を言えば日本人もアメリカ人も間違ったことは言っていない。アメリカでも日本でも戦争教育は自国の加害については最小限しか触れず、自国の被害を強調します。そのため、アメリカ人は原爆の悲惨さを理解していない人が多いし、日本人も「南京事件」はもちろんのこと「バターン死の行進」や「シンガポール華僑粛清事件」について知らない人が多い。

お互いに自分たちの加虐性について理解していないのだから、議論が噛み合うはずがありません。自分たちが受けた被害についてはよく知ってるけど、自分たちが相手に何をしたかは知らない。相手の立場に立った議論ができるはずがないのです。

ボクはシンガポールに9年住んでいましたが、シンガポールの小学校では日本の侵略戦争について授業で学びます。そんなシンガポール人からしたら、日本人がシンガポールでどんな酷いことをしたか知らないことがとてもショックです。怒りはしないけど、非常にガッカリします。これは日本人がアメリカ人に持つ感情ととても似てると思います。アメリカ人側も日本人の反感に対する不理解は、韓国人が旭日旗に反感を持つのが日本人が理解できないのに似てると思います。

相互理解できない理由②:批判性の文化の違い

アメリカと日本がお互い理解できない理由の一つは戦争教育という共通点があります。一方でお互いが理解できない理由のもう一つは文化の違いで、こちらの方が実は根深いと思います。「911をミームにされたらアメリカ人は怒るはず」という誤解は批判性の文化の違いです。アメリカ人によって作られた911のミームは数多くあります。もちろん、それを不快に思うアメリカ人はいますが、ミームがアメリカ人によって作られている事実は変わりません。

アメリカで加虐の歴史は教育現場で行われませんが、文芸作品や娯楽作品ではアメリカの加虐性が扱われることが少なくありません。代表的な例で言えばジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』やカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』です。

映画でも『地獄の黙示録』や最近だと『ザ・ファイブ・ブラッズ』などベトナム戦争を批判的に捉える映画はとても多いですよね。それこそ数え切れないくらいあります。アメリカでは自国が戦争で加害者として描かれるのはタブーではないです。

一方で日本では戦争をミームで茶化すことは不謹慎とされます。日本の文藝作品や娯楽作品では戦争において日本は被害者として描かれることがほとんどです。今回のバーベンハイマー騒動でも『はだしのゲン』をリファレンスとして抗議する日本人は多くいました。それ以外でも東京大空襲の『火垂るの墓』や沖縄防衛戦の『ひめゆりの塔』、収容所での過酷な生活を描いた『ラーゲリより愛を込めて』などなど。日本人がどれだけ戦争で被害を受けたかという視点がほとんどです。あたかも、戦争加害者としての日本を描くのがタブーであるかのように。

この日米の差は戦争を振り返るノンフィクションの分野でも顕著な気がします。

以前に書評を書いたマルコム・グラッドウェル『ボマーマフィアと東京大空襲 精密爆撃の理想はなぜ潰えたか』は加害者としての東京大空襲の振り返りをアメリカの視点から分析したものです。

日本で戦争を振り返った名著として『失敗の本質』すぐに頭に浮かびます。ただ、これは日本の被害をどうしたら減らすことができたのかという被害者の観点の分析となります。どうすれば戦争犯罪とも言える虐殺行為をなくすことができたのかという観点のノンフィクション作品はパッと頭に浮かばないです。ご存じの方がいたら教えて欲しいくらい。

双方の不理解と文化的違いを乗り越えて前向きな議論をするためには

日本とアメリカはお互いの戦争教育において自国の加虐性を教えなない。お互いのことを知らない。一方でアメリカには自国を戦争において批判的な目で見ることができ、日本は戦争は被害者として見ることがほとんどという違いがある。この前提ででは、どうしたらお互いの不理解と文化的な違いを乗り越えて前向きな議論ができるのでしょうか。

前向きな議論をする方法①:共通点を見出す

広島や長崎を例にして原爆の恐ろしさを訴えてもアメリカ人には通じないことが分かります。なぜならアメリカでは広島や長崎で何が起きたか詳しい教育は行われていないからです。これは日本でも戦争でどれだけ日本が酷いことをしてきたか教育されていないので、アメリカ人を批判しても仕方がありません。

不謹慎だと非難するのもアメリカは戦争を批判的にコミカライズすることができる国民性なので、通じません。むしろ日本はもっと自国がしたことを冷静に観られるようになりましょうと説教されるのがオチです。

しかし、アメリカ人と日本人の多くで核兵器に関しては共通する意見を見出すことは不可能ではありません。それは「核兵器は人類にとってよくない"Nuke is not good for humanity"」です。広島や長崎の原爆投下はおいておいて、一般的に核兵器がいいか悪いかで言えば、多くのアメリカ人は「よくない」と認めるところです。

前向きな議論をする方法②:相手を批判しない

「お前は理解していない」とか「お前は不謹慎だ」と非難されれば誰だっていい気持ちはしません。「広島や長崎で原爆を落とされた日本人は被害者で、加害者のお前たちがお祭り騒ぎをするのは許せん」という日本人側の気持ちは十分以上に分かりますが、それを相手に理解してもらうためには批判的な言い方では伝わりません。

「核兵器は人類にとってよくない"Nuke is not good for humanity"」という共通点に合意をした後に、オッペンハイマーがマンハッタン計画で原爆を作らなかったとしても、誰かが作ってたよね。大事なのはすでに人類は核兵器を持ってしまったし、それをどうするかが大事だよね。その上で「あのミームは核兵器を肯定していると思わない?"These memes seems celebrating nukes"」と聞けば「そうだね」とたいていのアメリカ人はなります。核兵器を共通の課題として置くことが大事。

その上で「核兵器の捉え方は歴史的な背景で日本人はより敏感なんだよね。広島と長崎を経験した日本人からするとあのミームはよりネガティブに映る」と言えば「なるほどね」となります。

前向きな議論をする方法③:自分を理解して欲しければ、まずは相手を理解する

相手と共通する問題を見出し、共通の問題をいかに解決できるか。このような議論をするためには、一方的に自分を理解してもらうマインドセットから抜け出さないといけません。自分を理解してもらうのがゴールではなく、相手と一緒に課題解決するのがゴール。そのためには相手の立場に立って考えることが重要となります。もちろん、一時的に感情に支配されてしまうこともあります。ボクも人のことを言えません。反省することしきりです。でも、常に相手のあることを意識して、理性を取り戻すことが重要だと考えます。

改めて教育の問題

今回の騒動で日本の教育について三つの課題を浮き彫りにしたと思います。

バーベンハイマーの騒動はこのように戦争教育の問題が一つあることがわかりました。これは日米共通する問題です。

そして、もう一つ見えてくるのが日本人の「振り返りができない」問題です。日本人の被害者としての戦争観がアメリカ人に受け入れられないのは「日本人はやっぱり戦争のことを反省してないんじゃないか?」があると思います。この「振り返りができない」問題は経済的な影響も与えていると思います。日本が「失われた○○年」を更新し続けて経済的に停滞し続けている原因もここにあると思います。

最後に異文化との前向きな議論の組み立てかたの教育です。それぞれの国には違う文化があり、考え方があります。違いに「よい/わるい」はないです。なんでもそうですが、一方が「よい」で他方が「わるい」だと言い争いにしかなりません。「自分たちのことを分かって欲しい」という欲求は自分が正しい(相手が間違ってる)前提です。お互い違うけど、共通する課題を見つけることはできます。このような教育が日本では抜けていると思います。

最後にメディアの問題

SNSはその特徴としてエコーチェンバーを形成します。冷静な議論には向いていません。『バービー』がここまで炎上をしたのもSNSならではの特性ももちろんありました。ワーナーブラザーズも日本と本国それぞれで謝罪をしました。しかし、それでもモヤモヤ感を拭うことはできませんでした。

この状況を改善できたのは監督グレタ・ガーウィグだったと思います。騒動の直後にジャパンプレミアのために来日し、そこでインタビューを受けました。取材をしたThe Riverの記事にある「NG質問は一切ありませんでした」を額面通り信じるのであれば、火中の栗を拾いに来たことになります。

今回の騒動の原因は公式SNSアカウントにあり、作品そのものは関係ないし監督も被害者みたいなものだという見方をする人もいます。ただ、監督であれば作品を楽しんでほしい。公式SNSのために楽しめないための要素が生まれたのであれば、それをできるだけ取り除きたい。こう思うのも自然ですし、クリエイターであれば作品のためだったら嫌なことでも向き合うでしょう。バービーは単なるブロンドのバカ娘の人形じゃないはずなのに、ミームでは単なるブロンドのバカ娘に映ってしまっている。そこは払拭したいはず。「広報がやらかしたことだからしーらない、見たくない人は見なきゃいいんじゃない?」とはならないです。

そして、ワーナーブラザーズもグレタ・ガーウィグ監督も誠意のある対応をしたと思います。

www.nikkei.com

しかし、「NG質問は一切ありませんでした」にも関わらずメディアがグレタ・ガーウィグ監督から引き出せたコメントは「ワーナー・ブラザースが謝罪したことは、私にとって非常に重要なことです。発表がなされたことは、とても重要なことだと考えています」だけでした。「楽しめないための要素が生まれたのであれば、それをできるだけ取り除きたい」という目的を達するには十分じゃないですし、広報が用意したテンプレをロボットのように読み上げるようなコメントは映画『バービー』のテーマであるエンパワーメントとも相反します。ミームと映画のテーマの相反するメッセージについても何も引き出せませんでした。

これはグレタ・ガーウィグ監督の問題というより、前向きなコメントを取れるような質問ができないメディアの問題です。相手の気分を害したくないから振り返りができない、異文化との前向きな議論ができない教育の問題をメディアが露呈してしまった形となりました。