読者の常識に挑戦する本は知的な刺激を与える本です。考えが及ばなかった部分に光が当たる感覚。しかし、それは「挑戦」なので、拒否反応もあります。理屈はわかるが、信じたくない。受け入れられない。日本語でも著書が翻訳されているカール・ハートの新著"Drug Use for Grown-Ups"はまさにそんな本です。
カール・ハートはコロンビア大学の教授で神経科学と心理学を専門にしています。ドレッドヘアーの見た目ですが、ドラッグについて先進的な研究をしている世界でも有数の専門家です。
Drug Use for Grown-Ups: Chasing Liberty in the Land of Fear
- 作者:Dr. Carl L. Hart
- 発売日: 2021/01/12
- メディア: Audible版
カール・ハートの本書における主張は以下にまとめることができます。
- ドラッグは悪い効果よりも良い効果の方が多い
- ドラッグの問題の多くは知識不足に起因する
- ドラッグ問題は人種差別の隠蓑になっている
つまり、正しい知識を持った責任のある大人であれば、ドラッグの悪い効果を最小限にし、良い効果だけを最大限に引き出すことができる。これが本書のエッセンスです。本書における「ドラッグ」にはアルコールやカフェインも含みます。無責任に「ドラッグは安全だから合法化(legalization)すべき」などとは主張していません。正しい知識を普及させて、責任のある大人にはドラッグを使えるようにしよう。合法化(legalization)ではなく、スペインやオランダのように非犯罪化(decriminalization)するのが最も近道だと説きます。
カール・ハートはドラッグの効果は四つの要因に大きく影響されると言います。
- 量(dose)
- 脳への到達ルート(route admiration)
- 摂取する人の個体差(set)
- 環境(setting)
量(dose)は実際の分量(quantity)もありますし、 その量で得られる用量効果(potency)もあります。用量効果が高ければ、分量は少なくてすみます。量を多く取りすぎる状態が過剰摂取(overdose)です。正しい知識で、正しい量を摂取する必要があります。
摂取したドラッグは脳に到達して効果を発揮します。摂取ルートは大きく分けて1)口から(経口薬)、2)鼻から(粉を吸い込んだり、煙で吸う)、そして3)注射器で血管からです。初心者は煙で吸う方法がコントロールしやすく、効果もすぐ表れるのでオススメだそうです。
また、摂取する個体差(set)や環境(setting)も大きく影響するそうです。例えば、体重もそうですし、疾患や病歴なども関係して来ます。その時のムードも。
これら全てがドラッグで良い効果を得るための必要知識だそうです。正しい知識なしにドラッグをやるから過剰摂取のような事故が起きる。ドラッグが関わる死亡事故の統計を見ると、ドラッグだけが死因ではないケースがほとんどだそうです。ドラッグは組み合わせてはいけない(これも「正しい知識」の一つだそうです)。アルコールを飲みながらコカインをやっちゃダメとか。そういうことらしいです。
ドラッグに関する大きな問題は知識不足だそうです。マリファナの合法化に拒否反応を示す人だったら卒倒してしまうかもしれませんが、コカインだろうと、ヘロインだろうと、LSDだろうと、『ブレイキング・バッド』で有名になったメスだろうと、正しく使えばアルコールやカフェインと同じだと言います。
なぜ、多くの人はドラッグについての正しい知識を持っていないのか?これには複数の要因があるのですが、正しい科学的な研究がほとんどできない状況にもその理由の一つだそうです。多くの研究はNIDA(National Institute on Drag Abuse)が資金を提供しています。本書で使われている科学的データのほとんどもNIDAが資金提供をした者だそうです。しかし、NIDAは基本的にはドラッグを根絶するために設立した期間なので、ドラッグは悪者でないといけない。例えば、「ドラッグは脳を変えてしまう」は通説になっていて、日本でも芸能人が麻薬で逮捕されると「ドラッグは脳を変えてしまう」から常習化してしまう!みたいな報道が多くなると思います。
薬効のドーパミン過剰供給によって,脳内に覚せい剤を欲する回路が形成され,継続使用のうちに回路が強化されていき,次第に回路自体が脳を支配するようになる。ー田代まさし氏の逮捕から考える覚せい剤依存のおそろしさ
しかし、実際には実験でそのような証明がされたことはないそうです。ジーナ・リッポンも著書"The Gendered Brain"で解説していますが、脳スキャン(fMRI)はビジュアル的に「わかりやすい」のですが、その解釈はとても慎重に行う必要があります。また、ドラッグが脳を変質させるというのであれば、摂取前と摂取後の二回スキャンをする必要がありますよね。しかし、実際には一回しかスキャンしません。
まず結論ありきで実験をしているので、実験結果が拡大解釈されたり、再現性がなくても突っ込まれなかったりするのだそうです。実際に、ドラッグの脳に関するネガティブな結果は再現性がある実験はほぼないそうです。なぜそんなことになってしまうのか、スチュワート・リッチーの"Science Fictions"の世界そのものですね。組織的懐疑性が機能していない典型例な気がします。
本書はマリファナ、LSD、コカイン、メス、ヘロインなどそれぞれのカテゴリーで読者の「常識」を科学的に正しい情報で揺さぶります。どのように情報が歪められているのか。そして、科学的には何が正しいのか。特にヘロインはアメリカで問題になっているドラッグのナンバーワンなので特に慎重に議論が進められています。アメリカの現代のヘロイン問題はベス・メイシーの"Dopesick"で詳しく解説されています。この問題も結局悪いのは製薬会社で正しい用量用法や効果を伝えていないからこんなことになったわけですよね。映画『トレインスポッティング』でもヘロインの悪い面を強調して描いていますが。しかし、 カール・ハートは自分の経験からも、学術的な研究からも、ヘロインの「二日酔い」であんな風にはならないとのことです。
ちなみに、カール・ハートは政治的には保守なんだと思います。ドラッグを楽しむ自由を提起しているので、そうなるでしょうね。本書の中でも「リベラル」は批判の対象となっています。しかしながら、ドラッグを規制しているのは「リベラル」だけじゃないですよね。アメリカならリベラルな民主党だけでなく、保守な共和党も麻薬を根絶する麻薬戦争を行なっています。こういう問題って科学と政治の問題であって、リベラルと保守の対立軸で考えると変な方向に行ってしまうと思いました。